施術者紹介
元気が一番整体室主宰の宮です。
少年時代
子供の頃はまわりものんびりしていた時代でした。
友達と遊びまわったり、読書の習慣も小学校の恩師のおかげで身に着けました。
南小→高崎三中(現高松中)→中央高校(現中央中等)と進み
18歳で大学入学のため上京するまで群馬で暮らしていました。
小学校の頃は市のソフトボール大会で優勝(チームの補欠)
中学では軟式テニス部で市の大会優勝校のBチーム。
賞には縁がない子供時代でしたが、
高校時代に皆勤賞をもらったのがひそかな自慢です。
中高校生時代に影響を最も影響を受けたのは、作家の畑正憲さん・ムツゴロウ先生です。
子供のころから身近に犬がいて動物好きだったこともありますが、北海道の無人島で暮らしたり、動物大国を作ったり...すごく憧れました。
高校2年の頃はそれまでの小遣いを溜めて、北海道一人旅に出かけました。たしか3週間くらい乗り降り自由の周遊券を握りしめ、ユースホステルに宿泊して主に道東を一回りしてきました。動物王国へはいけませんでしたが、道東の雄大な風景に接し一層北海道熱に拍車をかけたものです。
大学時代は会計学のサークルに所属し理屈っぽさに磨きをかけ、何とか可山優三(死語か)の成績で無事に卒業できました。
会社員時代
卒業後は北海道発祥の信販会社(現在、錦織選手のスポンサーをしています)に入社し、モーレツサラリーマンをしていました。
初任地は仙台で、「青葉城恋歌」 がヒットし、「独眼竜正宗」に沸いていたころでした。
しかしそんな喧騒とは関係なく、仕事仕事の毎日でした。毎日終バス、繁忙期はタクシー帰りでアパートに寝に帰るような生活でした。
名所・名物・観光地とは全く縁のない仙台在住時代でした。
おかげで十二指腸潰瘍になったのもこの頃でした。
初めての大きな病気でした。今から振り返れば、よくも毎日夜遅くまで仕事をしたなぁと思います。
その後仙台を脱出しようと社内公募に応募し、システム部に配属され東京復帰、さらに残業の日々は続きました。
社内の汎用機でCOBOLでプログラムを書いたり、データー処理をしたり...
毎日遅くまでよく働きました。
その後銀行系のノンバンクに転職し、少し落ち着いた生活を取り戻してきました。
土日が休める会社だったのですが、まず休日に何をしていいのかわからない。
何かしたいけど何がしたいのかわからない...
行きつけの飲み屋の常連さんたちとスキーや海水浴へ行ったり
マイクロソフトのネットワーク技術者試験に挑戦したり...一応MCP資格者でした。
失われた青春を取り戻すかのような毎日でした。
焦鉄軍先生系の気功を習ったり、西野流の呼吸法を習ったり、いろいろなことに手を出しました。
岡本正剛先生の下で古武術・大東流を習い始めたのもこの頃です。
そして大東流の道場のお仲間さんの縁で出会った整体(野口整体)の世界に急速に引き込まれていきました。
いろいろと情報を収集し、野口整体の野口晴哉先生の下で親子2代で支部長を務められ、その後独立して井本整体を主宰されていた、井本邦昭先生の道場で勉強を始めることとなりました。
現在につながる整体人生の原点となります。
仕事のほうはといえば、バブルの崩壊とその後始末で忙しくなっていきました。
親銀行はその後破たんし、一時国有化後に海外ファンドの経営に。
子会社である勤務先のノンバンクは細々と生きながらえていましたが、親銀行の債権者申し立ての会社更生法適用会社になってしまいました。
そして勤務会社も海外ファンドにより買収され、会社再建の道を歩み始めます。
この頃から徐々に「この仕事(金融業)は一生やる仕事じゃないな」と思い始めます。
仕事自体は面白かったですし、仕事も任せてもらえたのでやりがいはありましたが、50歳・60歳になっても今の仕事をやっていくのかと思うと、急にむなしさを感じるようになっていました。
この頃からそれまで数年趣味のように学んでいた整体を、これからの仕事にしようと、一層身を入れて修行を続けました。
海外ファンドによる再建にめどがついたところで会社を退職し、地元高崎で整体院を開業しました。
会社のほうはその後1年で再度邦銀に売却され、ファンドの非情さというか経済合理性の追求に「やっぱり自分にはついていけなかったな」と思ったものでした。
続く
公開日:
最終更新日:2016/04/16